永遠に失われた、午後5時半の冒険譚とモラトリアム。あるいは、屋上と、校庭と、冬の乾いた空へ。

『TUESDAY GIRL』について書いていたら、僕の古い思い出が蘇ってきたので、「アイマスMADSS」というタグを新設して、綴ってみた。それだけ、僕にとって『TUESDAY GIRL』は記憶と感情に働きかけてくる動画なのだ。
坂本P、ありがとう。


15歳の、3月。中学校の卒業式が終わり、高校の入学式が始まる前までの、どこにも所属していない、不安定ですがすがしい1カ月間。
そんな3月のある日。寒いけれど雲ひとつない、よく晴れた日だったと思う。僕は友人のタカハシの部屋で、TVゲームに興じていた。当時の僕たちは、親鳥が運んできた食事を一心不乱にほおばるひな鳥のように、TVゲームという、与えられた仮想現実で遊ぶことしか知らなかった。
僕がどうにも進めない面で悪戦苦闘し、そろそろ諦めるか、もう1回挑戦するかを考えていたとき、「なあ、」と背中越しにタカハシの声。
「ん?」
「俺と同じクラスにいた、マツヤマさんって知ってる?」
「あ? ああ。知ってるよ」と、振り返りながら、大して興味なさそうに返事をする僕。−−それは嘘。本当はマツヤマさんのことをよく知っていた。


マツヤマさんは、僕とは1年生のとき、タカハシとは3年生のとき、同じクラスになった女の子だ(僕とタカハシは2年生で同じクラスだった)。身長は、はじめてマツヤマさんを見たときから卒業式のときまでずっと、だいたい僕と同じぐらい。人目を引くような美人ではないけれど、くせなく肩まで伸びた、つやのある黒髪と、4月の空のように不安定な、くるくる変わる表情、笑ったときの、人なつっこさを感じさせるような目の丸みが、印象的だった。性格的には、リーダーとして引っ張るというより、ひとりを好んでいたと思う。休み時間もあまり話の輪に加わらず、ぽつんと机に座り、その澄んだ目で、黒板の先の、どこか遠くを見ているようだった。
僕は女の子としゃべることが苦手で、都合の良いことに、女の子も僕に対しては同じ思いだったようで、ほとんどの女の子とは必要最低限の会話しかしなかった。そんな中、マツヤマさんは、僕に対してはなぜか話しやすかったみたいで、進級してクラスが別々になってからも、ときどき廊下で声をかけられては(僕から声をかけることはほとんどなかった。僕は誰に対しても内気だったのだ)、たわいのないことをしゃべりあっていた。
いつだったか、話が弾みすぎて、最初の話題からずいぶんとずれてしまったことがあった。
「変な話になっちゃったね。ごめん」と謝ると、マツヤマさんは「ううん、謝るのは私の方よ。Ri-fieくんだと気兼ねなく話せるから、つい、ね。女の子同士の会話は、ちょっとした言葉尻をつかまれたりしないかって、怖いのよ」と、微笑みながらほんの少しだけ肩をすくめた。「それにね」
「ん?」
「Ri-fieくんって学校でも有名な変態じゃない?」と、その愛くるしい目をもっと丸くしながら、マツヤマさんはクックッと笑った。
「え、い、いや、変態って…」驚きつつもささやかに抵抗する僕。なるほど、僕は確かに、いろんな意味で変態として認識されていたが、面と向かって変態と言われて、内心穏やかでいられるほど、道化にはなりきれていなかった。
そんな僕の表情を読み取ったのか、マツヤマさんは少し慌てたように「あ…えっと、違うの。悪い意味で言ったつもりじゃないのよ、変な人の話すことって、案外面白いものだから。変態だとしてもね」と付け足した。まったく慰めになっていないし、変態というところは訂正してほしかったけれど、言葉の調子からは、非難しているわけではないことが感じられた。それに何より、そのときのマツヤマさんは、調和していたのだ。笑顔と、声と、風に、ゆるやかになびく髪と、おどけたような仕草とが。名画をものにする画家が、思い入れたっぷりに描き込んだカンバスから、抜け出てきたかのようだ、と僕は瞬間的に思った。
僕の頭の片隅には、いつもマツヤマさんがいた。もっと知りたいとも思っていた。ある種の好意を持っていたと言ってもいい。けれどその思いは、マツヤマさんにも誰にも、一度も口に出すことはないまま、卒業式を迎えた。僕は勇気とはほど遠い存在だったのだ。


僕はそんな思い出を頭に巡らせながらタカハシの次の言葉を待った。マツヤマさんが、どうしたというのだ、タカハシ?
「実は俺…、マツヤマさんとセックスしたんだ」
セ・ッ・ク・ス。セックス。その4文字の並びを理解するのに軽く1秒かかり、理解した後には驚くまでに1秒かかった。
「えっ…、あっ…、な、何だって!?」ようやくこれだけの反応を絞り出したものの、実はまだ「マツヤマさんと」という一文とがつながらないまま、僕は、一つのことを思い出した。
「タカハシ、お前、キムラさんは!?」
そうだ、キムラさんは−−。タカハシはキムラさんと同じ学校に行きたいがために、受験校を選んだのだ。タカハシの学力からすれば余裕で合格するはずだったその学校に、しかし、落ちた。
「落ちちゃったしね。もう終わったよ…」
「うーん、そういうものなのか」ようやく落ち着きだけは取り戻しはじめた僕の様子を見て、タカハシは、診断結果を告知する医者のように、淡々と話しはじめた。
マツヤマさんも落ちてさ。落ちたのって、ウチの学校からは2人だけだったんだよ。受かったやつらは、早く報告したいのかな、電車で帰るっていうから、俺はマツヤマさんと二人でさ、歩いて帰ることにしたんだ。『落ちちゃったね』とか言いながら、中学のこととか、学校のこととか、勉強のこととか、いろいろ話しているうちに、自然と手をつなぎはじめて。学校に到着して、報告しなくちゃってときにマツヤマさんが『報告する前に、隣のマンションの屋上にでも行かない?』って言ってね」
僕はうなずく。そこの屋上からは校舎と校庭がよく見える。生活とか恋とか人生とかについて何かを考えたいとき、あるいは、何も考えたくないときに、そこはうってつけの場所だった。
「手をつないだまま、一緒に校舎を見ているうちに、マツヤマさんが俺の方に体を預けてきて。それで、そのまま」
「ちょ、え!?屋上でそのまま!?」再び僕は驚く。
「ああ、屋上で」とタカハシ。「マツヤマさんと話しているうちに。とてもいい子だって知ったんだ」僕も知ってる。「なんかちょっと変わったところがあるね。とんでるというか」そうか、だから僕とも話が合ったのかもしれない。そして僕とタカハシとが気のおけない友人であるように、タカハシとマツヤマさんとの間にも、即座に関係性が結ばれたのだろう。「俺もマツヤマさんも、あのとき、冒険したかったんだよ。そういう時があるんだ」
冒険。
その言葉を聞いて、何かが腑に落ちたような気がした。冒険。
2人の冒険は、どのようになされたのだろう。それは僕にとって、何となく、神聖な儀式を想起させた。
校舎と校庭を見下ろす2人。顔を近づけるマツヤマさん。錆びた手すり。近くの幼稚園から聞こえてくる、子供たちの遊ぶ声。車の騒音。冬服の、厚手のブレザーに手を滑り込ませる音。ブラウスを外すときの、震える手。冬晴れの空。マツヤマさんはタカハシを受け入れるとき、雨に打たれシミのできた、ひんやりとしたコンクリートに背中をつけながら、タカハシの肩越しに冬晴れの空を見たのだろうか。
ばかばかしいぐらいに晴れあがった空を。
僕も同じ日に見たであろう、僕にとって何も知らず、何の変哲もなかった空を。
星系外探査船に乗り込む宇宙飛行士たちが、搭乗口をくぐる瞬間、振り返って目に焼き付ける、最後の地球の風景のように、マツヤマさんにとって、その日の空は忘れ得ぬものなのだろうか−−。

夕暮れの匂に出会うたび 彼女は思い出すのだろう
火曜日の純情を 土曜日の性情を

受験に失敗したこと、タカハシと刹那な関係を持ったこと、心と体の鈍いいたみ。冒険。冬の乾いた空。青空。マツヤマさんは一日の間に、これらのことをどのように受け入れ、消化し、あるいは消化しきれないまま、繭を身に纏ったのか。

なおも話を続けようとするタカハシにようやく、僕はマツヤマさんへの思いを告げた。今度はタカハシが驚く番だ。
「え?あ、えーっ!?」まったく、今日は二人してどれだけ驚けばいいのだ。「そうだったんだ…。いや、悪いことをしたな。知らなかった」
「いや、いいんだ」僕は繰り返す。「いいんだ」
僕は確かにマツヤマさんに好意を持っていた。だけど、その好意は伝えるつもりがなかった。タカハシがマツヤマさんとセックスしようがしまいが、結果は変わらなかった。マツヤマさんが僕を好きでいて、しかもたとえば卒業式の日に告白してくれる、なんてことはあり得ないのだから。
僕には悔しさや嫉妬心は湧いてこなかった。僕が望んでいたのは「両思い」という安定。マツヤマさんがそのときに欲していたのは安定ではなく冒険だった。そしてタカハシが冒険に誘った。冒険は、冒険をしたいと渇望する人間に与えられるべきなのだ。


あれからどれだけの年月が経過したか。
タカハシとは今もときどき会うが、話す内容は様変わりした。あのときの僕たちは、冒険譚を聞いたり話したりできるのは今だけだということに、気づきもしなかった。冒険はやがてコストとベネフィットの話になり、最後はいつもの作業になる。誰が好きこのんで、友人に毎日の通勤を説明するような、ばかげたことをするというのだ。僕たちは冒険を永遠に失ってしまったのだ。


タカハシとマツヤマさんの逢瀬は、たったその数時間だけだったようだ。マツヤマさんのその後の消息を、僕もタカハシも知らない。
ただ一度だけ、マツヤマさんのことをお互いにふと思い出したことがある。
「タカハシ、マツヤマさん、どうしているんだろう?」
「うーん、そうだな」タカハシはちょっと考える。「ヘンな子だったからな。案外、アイドルでも目指しているんじゃないか?」
なるほど。「そうかもしれないな」