僕も大真面目にAさんの文章を校正してみた

http://d.hatena.ne.jp/tokoroten999/20130509/1368107661を読んで、http://anond.hatelabo.jp/20130508154614のAさんの文章を校正してみたくなった。

方針は3つ。

1.どうせ、どう手を加えようが、論点の矛盾や筋の通らなさは直せないのだから、元文の妙なすごみ(大して褒めてない)はできるだけ残す。
ex.
・「曰く」を3連呼することで生まれるリズム感
・「骨だけ骸骨」という響き。宮武外骨っぽいね
・「大真面目に」という居直り感

2.「僕」の数(3個)は変えない。文章中の距離もなるべく変えない。
ex.ハックル先生の文章から「ぼく」の数を減らしたら、確かに読みやすくはなるけれど、文章全体から嫌でも伝わってくるあの自意識過剰っぷりやアクの強さが抜けて、元々の論旨の弱さとマヌケさが露呈してしまうでしょう?

3.前後で意味が通りづらいところは、本当に意味が通るかどうかはともかく、前段の言葉を後段で繰り返すことによって、何となく意味が通じているように錯覚させる。

あとは、明らかに意味が通らないところや読みづらいところを、言葉を補う・削除する、文章を入れ替える…などにより整えた。

なお、迷ったのは、「理論的」と「論理的」。意図して使い分けているのかもしれないが、リーダビリティを阻害するので、前者は「理論上」と言いかえた。

●「理論上は正しいのに納得できない」

思うに「頭でっかち」、思うに「論理的な馬鹿」、思うに「ハリボテ」。
それが、僕がこの本について感じたことだ。

思考法としては斬新きわまりないし、日本には少ないタイプの考え方であろう。
ただし、それらはあくまで「読者を焚きつける」意味合いのみであって、焚きつける以上の論理性、すなわち、社会に通用するリアリティを期待して読むとイライラさせられる。

現代には、ロジカルであること、理屈に合うことが良いとする風潮があると思うが、その風潮に反して、「論理的であることの限界」を見せつけるかのような本だと感じるのは僕だけだろうか。

僕は「理論上は正しいのに納得できない」という感覚に何度も襲われたが、それは訳者が意図する「焚きつけるための超訳」にハマっていたからこそだろう。
現代が生み出した反面教師だ。

経済学の観点から大真面目に反論すると、「効用最大化」の視点では素晴らしいリバタリアンも、「外部不経済」的視点はもとより、「人間は感情で動く生き物である」という、人間の精神的構造さえ受け入れられない欠点を抱えている。

確かに、経済学とは社会の骨組みを扱う学問である。骨組みを扱うゆえに全能感を抱きやすく、全能感を抱きやすいゆえに「理論上正しい」政策論議を行うこともできるのだが、神経や肉がつかなければ骨は動かないのと同様、社会システムという骨組みも、それを動かす人間という神経や肉がつかなければ、結局は成立しない。

リバタリアンという連中はまさに「骨だけ骸骨」である。

経済理論上では正しいことを言っているが、それとて一面的なモノ。まして他の学問領域に論理が及んでいないため、そのまま社会に取り入れたところでカオスを招くだけである。

だが、社会としては筋が通らず、納得もできない「理論上の正しさ」を、わざと展開してみせるからこそ、気づかされることも多かった。

なお、超訳の仕方が非常に現代的、学歴社会的な、「知性や知識を消費させる」態度であることは非常に面白かった。

訳者のセンスが良い意味でも悪い意味でも強く発揮された、時代に必要とされる著作であった。

自分なりに校正してみて面白かったのは、同じ素材でもid:tokoroten99さんとはできたものがこれだけ違うということ。
昔『3番テーブルの客』という番組で、「同じ脚本でも別の演出家が担当すれば印象はガラッと変わる」ことを明らかにしたけれど、それを思い出すきっかけにもなった。うん、いい番組だった。

3番テーブルの客 - Wikipedia

素材を提供してくれたAさん*1、校正欲を刺激してくれたid:tokoroten99さんには感謝を申し上げたい。

*1:アップする直前まで、素でとあるidを書いていたのは内緒だ。