肉体を温めるのは暖炉の炎、魂を温めるのは魂の炎:アイドルマスター 如月千早 「嵐が丘」-えこP(その2)

ドアから出入りするのは肉体、窓から出入りするのは霊魂:アイドルマスター 如月千早 「嵐が丘」-えこP(その1)の続き。


2 なぜ不自然なカメラワークを選択したのか

2つ目の妄想は、不自然なカメラワークと、その意味。

例えば1分46秒。
左サイドに向けていたカメラが、いきなり千早の正面、斜め下45度に切り替わる。さすがにカットアウト/カットインではないが、申し訳程度のディゾルブで、90度プラス45度を移動するというのは、かなりアクロバティックなカメラワークだ。千早の位置関係が一瞬分からなくなるため、映像の不安定感と違和感が強調される。
続いてその5秒後、1分51秒で、重力に従って落下していた千早を、説明なしで(羽はついているけれど)浮かび上がらせる。
さらに1分53秒、やはりほんのわずかのディゾルブで右サイドへ移り、「なぜ逆サイドに回り込んだのか」の説明なしに、つい7秒前とは正反対の位置取りとなってしまう。

どれもかなり唐突で違和感のあるカメラワークなのだが、このあたり、違和感をなくそうと思えば、いくらでもできる。たとえば左サイドから正面の側へ、カメラを少し回り込ませた後に正面のカットを入れれば、だいぶ解消されるはずだし、千早を中心として円を描くようにカメラを動かす方法もある。

落下から上昇の転換についても、「羽が生える→落下速度がゼロになる→上昇に転じる」というシーン(あるいはそれを暗示させるシーン)などを付け足してもいい。何しろ自作素材なのだから、やろうと思えばいくらでもできることだ。実際「アイドルマスター っぽいフォントをつくってみた」では、3D酔いでもさせようかというぐらい、ぐりぐりと縦横無尽に動かしていたのだから。

つまり、カメラワークによる不安定感は、計算ずくなのだ(妄想)。

では、この効果は何を意味し、何を象徴させているのか。
僕は考えた。えこPは、アイドルという存在を象徴させたのではないか、と(続妄想)。

☆ ☆ ☆

アイドルとは−−。たとえばここに、クラスどころか学校、いや、地域の中でも一番かわいくてショートカットとカチューシャがよく似合う、スポーツもそこそこできて頭が良くて、しかも隣に住んでいる幼なじみの女の子がいるとする。この、地域の中でも一番かわいくてショートカットとカチューシャがよく似合う、スポーツもそこそこできて頭が良くて、しかも隣(ryの女の子は、そのままでいれば、間違いなく周囲の男の子や女の子や先生や町の住人などからちやほやしてもらえる。女王様である。楽園である。幸福な将来は約束されたようなものである。少なくともまず僕が放っておかない。それじゃあ地獄か。ご愁傷さまである。
ところが、アイドル(候補生)という道を選択した瞬間、地域でも一番かわいいと評判のショートカットとカチ(ryの女の子は、2つのことを強制的に悟らされる。
一つは、「芸能界とは、アイドルの世界とは、全国中から、地域で一番かわいくて、ショ(ryの女の子たちが集まる場所であり、自分は特別な存在でも何でもない」ということを。
もう一つは、「自分の力の及ばない、遥か遠いところで何かが決定し、それに従わなければいけない」ということを。
−−しかも、たかだか10代やそこらで。
そして、ほんの数年で、ほとんどのアイドル候補生たちは、大海に溺れ、消えていくさだめなのだ。

そう、芸能界に入るということは、エデンの禁断の実を食べるに等しい。そして、その原罪ゆえに楽園から追放され、売れるかどうか分からない不安定な世界の中で、あちこちぶちあたりながら、波のまにまに漂う、壊れた舟*1のように翻弄され、進む道を模索しなければならない。それがアイドルという存在である。

アイドルという不安定な存在に『嵐が丘』を重ね合わせようとしたなら−−。そう考えると、不自然で違和感のあるカメラワークも、しっくりくるのである(超妄想)。

3 では、狂言回しとしての千早の役割とは?

1と2の妄想を前提として、では、『嵐が丘』での千早=狂言回しの役割とは何だろうか。
僕は、「そんな不安定で不条理なアイドルという存在を許容し、あるいはその不条理さをアイドルたちに代わって歌に託すムーサ」または「アイドルという原罪を背負った子らを救済するメシア」ではないかと妄想した。

☆ ☆ ☆

この妄想の根拠は、光源にある。
光源は基本的に、千早の正面、斜め上30度ぐらいのところから差し込んでいる。
ところが、1番、2番とも、2回目の"Heathcliff,it's me〜(意訳すると『ヒースクリフ、私よ、キャシーよ!。外はとても寒いの。窓を開けて、私を中に入れて!私を温めて!』)"のところだけは、10秒間ずつ(59秒から1分9秒、2分3秒から2分13秒)、ほかに天上からも光が降り注いでいる。
これは、一度目の"Heathcliff,it's me〜"という「キャサリン=皆=アイドルの願い(をムーサまたはメシアたる千早が代弁したもの)」を、天が認め、許し、祝福した証ではないだろうか。

4 対になる動画とは?

作者コメントによると、「嵐が丘」の対となる動画が存在し、8月30日に投稿されるという。
4つめの妄想は、その対となる動画について、ラストシーンからの連想である。

ED、浮遊する島の先端に立つ千早から、カメラは急速にズームアウトし、雲の下へと潜り込んでいくが、対の動画は、このままカメラが地上へと降り立ち、地上の、原罪を背負ったアイドルたちを活写するのではないか、と予想してみる。
……さあ、あと1日か、もしかすると半日かそこらで「てんで違うじゃないかww妄想乙www」と笑われてしまうようなことを書いていいのか俺? 

5 『踵鳴る』と『嵐が丘

5つめの妄想。それは、「踵鳴る」と「嵐が丘」は、えこPの中で同一の地平にある動画なのではないか、ということ。

2で書いたように、僕は、アイドルほど不安定で不条理な存在はないと思っている。
自分は特別な存在でないことを思い知らされ、
誰かの金儲けのためにコントロールされ、
大人の世界、大人の論理で動かされ、
数限りない嘘を強要され、
しかし、その不条理さを受け入れなければ、アイドルたり得ないのだ。

もともとは『踵鳴る』について書くときに触れようと思っていたことだが、律子以外のアイドルは、笑顔でありながら、なぜか表情は固まっている。その理由を僕は、「えこPがアイドルという存在の不条理さを投影したからだ」と妄想した。そして、笑顔の仮面に隠された叫びを、eastern youth=律子が代わりに絶唱しているのだ、と。

歌う場所が空か隣かの違いはあれど、(今のところの)僕にとって『嵐が丘』の千早は、『踵鳴る』の律子なのだ。

☆ ☆ ☆

『踵鳴る』と『嵐が丘』が同一の地平にあると感じた理由。そのもう一つのキーワードは「小津安二郎」である。

これも『踵鳴る』で書こうと思っていたことだが、カットアウト・カットインの多用と、人物を真正面からとらえるという構図、それに、EDで挿入された、ローアングルから見上げるような青空の画に、小津安二郎の影響を感じたのだ。

で、『嵐が丘』のカメラワークから僕が感じ取ったのは、イマジナリラインの限界に対する強い意識と挑戦であり、そこから生じる違和感に、やはり小津安二郎の会話シーンにおけるカメラワークの匂いを感じたのだ。

だから、僕の中では、『踵鳴る』と『嵐が丘』は同一の地平にある。

「ちょwその程度で小津安二郎ってwwあーたww笑い殺す気かwww」と嘲笑されるのは覚悟の上である。僕はそう感じたのだ。悪いけど感じたんだ。諦めておくれ。

おわりに

嵐が丘」についていろいろ書いてみた。中にはもしかしたら、偶然にもえこPの意図に近づけた点があるかもしれないが、まあほとんどは的はずれ、というか、単なるデムパ、妄想乙というところだろう。

だが、正直、そんなことは、どうでもいいのだ。
僕が「嵐が丘」を最初に見たのは8月25日夜だが、以降、今まで、何度も何度も、いや、何十回も、もしかしたら100回以上、繰り返し見た。心を動かされた。そして、筆無精な僕が、ばかみたいにアツくなって、こんな文章を書き散らした。
こんなばかが、ここにいる。そして、そのばかは、えこPに「ありがとう」と言いたいのだよ、と−−。
えこPには、それだけを伝えたいのである。


おまけ

1分49秒から50秒にかけての、千早と、千早の瞳の中に映る(実際には、瞳の中から飛び出してくるんだけど)千早がかわいい。

*1:神様、私は私自身で決めます−−。何となく言ってみたかった。意味はない