いつかは読みたい『大菩薩峠』

山手線にて

人間はなぜ寝ても覚めても悪夢にうなされなければならないのだろう、などと、まあ、毒にも薬にもならないような妄想をぼんやり浮かべながらの山手線。手に持っていた『文藝春秋』12月号を、何気なく、適当なところで開いたら、ちょうど『大菩薩峠』というタイトルが目に飛び込んできた。

左上の柱を見ると「死ぬまでに絶対読みたい本」とあり、改めて本文を読むと、
「『一生に一度は読んでみたいと思いつつ読んでいない本』という企画は、やってみたらあまり個性的なセレクションにならなかったのではないかと思う」
「もちろん『大菩薩峠』も」
「読み続けられなくて途中で断念した」
云々と記されている。

何を隠そう、僕も、青空文庫で『大菩薩峠』を読もうとして、最初の「甲源一刀流の巻」で挫折したクチである。
作家別作品リスト:中里 介山

それゆえ、(レベルに雲泥の差はあるものの)筆者に対しある種の親近感を覚えるとともに、この企画はつまり「未読・途中で投げ出しているけれど『死ぬまでに絶対読みたい本』を挙げるのだな」と理解した。*1
(この段階で実は、筆者について、全く意識していなかった。『大菩薩峠』にばかり気が向いていて、筆者が誰かという点に頭が向かなかったのだ)

で、次にまた、適当にページを前にめくっていったところで見えたのが『罪と罰』の文字。今度はきちんと筆者を意識した。俳優の山崎努さんだった。

山崎さんは、
「僕の読み方は幼稚でデタラメなものだとは当時も自覚していた」と独白した上で、
「だから殺し決行の場面は一度読んだきり。いつもそこはパスしてその前後の描写を繰り返し味わっていた」
「そのうちにドストエフスキーの文章も要らなくなり、主人公の心理や行動を自分勝手に脚色し」ていたそうであり、
「今となってはこの小説が正確にはどんな筋立てなのかもわからない」
「いずれ機会があったら、実はどんな作品だったのかをチェックして、若かった自分を笑ってみたいとも思う」
とまとめているから、なるほど、これも未読として数えてよいのだろう、と理解した。何しろ、ドラマの大きな転換点となる、殺人のシーンを一度読んだきりで(このような場合、自分の経験上、間違いなく重要な描写を見落とし、あるいは勘違いしているものだ)、しかも自分勝手にストーリィを改変しているらしいのだから。

山崎氏がどのように改変したのか、何かの機会に明かしていただけないものだろうか…などと思いを巡らせながら、さらにページを1枚、前にめくったら、福岡伸一の名前があってげんなり。この特集を読み通す気力が一気に失せてしまった。
紙の上に巣くう悪夢と対峙するに、最も効果的な方法は書物を閉じることである。折良く目的の駅に着いたところでもあり、即、ページを閉じて帰ってきて、適当にサイトを巡回したわけだが、その結果がこれである。

http://blog.tatsuru.com/2008/11/11_1015.php
(僕はここで初めて、『大菩薩峠』の文を執筆したのが内田さんであることを知った)

たまたま読んだ二方が、まさに未読かそれに準じる本を挙げていたので、そんな愉快な状況だったなどとは気づかなかったし、この記事を読まなければ、52人全員が未読の本を挙げているものと、死ぬまで思いこんでいたことだろう(何しろ僕は、福岡伸一の署名があるだけで、その本も雑誌も読む気力を失ってしまうのだ)。不思議な巡り合わせである。

ゼロの本、無限の自分語り

さて、内田さんはこの特集の顛末について、皮肉たっぷりの分析を加えている。

それに、この事実から私は重要な知見をくみ出したのである。
それはどうやら日本のインテリゲンチャは「自分が知らないこと」を情報開示することの「意義」を理解できない人々によって構成されているらしいということである。
彼らは全員が期せずしてアンケート文中の「未読の」という形容詞を読み落とした。
これはきわめて徴候的なことである。
このアンケートはその意味で日本のインテリゲンチャが「おのれの知的限界を意識化することにつよい倦厭と忌避を抱いており、かつそのことを意識化できないでいる事実」を語る貴重な精神分析的=民族誌的資料として活用されうるのである。
それに「オールタイムベストワン」のブックガイドとしても読むことが出来るから、一石二鳥。

ごもっともである。そして、こうなるのもごく当たり前のことなのだろう。なぜならインテリゲンチャにとって、「この一冊」とは必ず、その本に対して自分の知識と経験と分析というスパイスをふんだんに掛け合わせた上で、レトリックを駆使して語られなければならない存在だからだ。

ここで本当の未読本を挙げたのでは、このレトリックが使えない。何しろ、掛け合わせるべき本が未読=「ゼロ」では、インテリゲンチャの裏付けたる知識も経験も分析も、どれだけ掛け合わせようがゼロであるからだ。
同様に、途中で読むのを止めた本では、係数にして「0.5」がせいぜいだ。
少なくとも「1」、できれば、さまざまな周辺知識を総動員して係数を「2」や「3」に高めた本を、自分語りの道具として使いたいではないか。

言い換えよう。
未読の本を語るとは、「オールタイムベストワンの本を語るふりして自分語りを垂れ流しても、それを庶民がありがたがって読んでくれる」という、苦労して得たインテリゲンチャの特権を、わざわざ手放してしまうに等しいのである。

……まあ、そうでなくてももう一つ、技術的な面で言うと、600文字程度で「その人の隠された心的傾向がうかがえる」ような文章をまとめるのは、やはり難しいのだろうが。
内田さんも、というより、「あの」内田さんでさえ、

まあ、毒にも薬にもならないような文章である

と、(韜晦交じりとはいえ)振り返るような、そういう題材であり、実際内田さんについて分かったことは、極論すると「机竜之助に感情移入できなかった」ということぐらいなものである。

結局のところ、この特集企画を発案した編集者は、発案はともかくとしても、インテリゲンチャの心性を斟酌した上で「難しいテーマとは思いますがッ、くれぐれも、く〜れ〜ぐ〜れ〜もッ、未読の本を挙げてくださいね。お願いしますお願いします」と、くどくどと注意を促すべきだったのだ。

うまいもの語り考

本について語るとは、食通のうまいもの語りと同じで、読んでこそ、食べてこそ、はじめて一本芯の通った何かを言えるようになる性質なのかもしれない。

美味しんぼ』に、食通が「うまいもの語り」を始めるシーンがある。
(ここで使用したセリフなどはすべて、美味しんぼ -山岡士郎観察記�@-からお借りしている)

作曲家『よろしい、黒海キャビアを取り寄せましょう』
評論家『それじゃ、タイから燕の巣を持って来なくては』
エッセイスト『パリで食べた、子牛の喉肉のパイ皮包み焼きが忘れられないなあ』
芸能評論家『私はフランスから、美食の王「フォワ・グラ」を取り寄せましょう。フォワ・グラはガチョウに茹でたトウモロコシを大量に与えて、運動をさせずに太らせて、その異常に肥大した肝臓で作るのですよ。どうです山岡さん。やはり「究極のメニュー」には欠かせませんでしょう?』

と、まあ、なんというか、「食を語る=欲求を満たすための手段を語る」だと考えている人間には赤面もののセリフが並んだところで、

「日本の食通とたてまつられてる人間は、滑稽だねえ!」

と、まさに後年、普通においしくて、普通に安全に食べられて、普通の値段で手に入る食材と、その食材を生産する人たちをことごとく否定して自信を失わせた上、根拠のない安全神話をがなりたてながら、滑稽なまでに際限のない「食への欲求」を語ることになるエコ貴族こと山岡史郎が、ここではそんな自分を棚に上げて一喝・一蹴するわけであるが……。

もしここで食通たちが、「未食だけど死ぬまでに食べたい一皿」というテーマで語っていたらどうなるか。

作曲家『黒海キャビアって、おいしいらしいですよ? 取り寄せてみませんか』
評論家『それじゃ、タイから燕の巣を持って来てみたいなあ。この前はゲテモノっぽく感じたから、一口で下げてもらっちゃったんだ』
エッセイスト『パリで他人が食べているのを見た、子牛の喉肉のパイ皮包み焼きが忘れられないなあ』
芸能評論家『私はフランスから、食べたことはないけれど美食の王らしいと噂の「フォア・グラ」を取り寄せましょう。どうです山岡さん。やはり「究極のメニュー」には欠かせません、よね?』


山岡『皆さん本当に、日本の食通とたてまつられてる人間なんですか?』
大原『どうなんだろ?』

……何とも迫力のない食通どもである。一喝どころか、たかが山岡や大原社主ごときに憐憫のまなざしを向けられる羽目になってしまったではないか。あんまりである。食通としてのプライドがズタズタのギタギタである。

同様に、もし52人全員が未読の本を挙げていたなら、

「世間では面白いって言うけど、いまいち自分には合わなかったなあ」
「だって、感情移入できないんだもの」
「なんかねえ、主人公の行動が追い切れなかったんだ」
「本当はまともに読んでないんだ。そういうところは、脳内補完してるよ」
「やっぱり、いったん読むのをやめちゃうと、次々と読みたい本は出てくるし、後回しになるしで、結局中断しちゃうんだよね」

なんて文章がずらーっと52個並び、読者もポカーンとするわけ…………ん?あれ?いや、面白そうだ。面白そうだ、けど、何とも迫力のない、ふにゃふにゃな特集になっていたのではないかな。

その意味で、ほとんどのインテリゲンチャたちは、「未読の」という形容詞を読み落とした、あるいは無視したことで、図らずも、特集にある程度の芯を生み出すことに成功したのだ。

アンケートの、不思議な結末と言うほかない。

おわりに

まともにテーマを受け取り、消化しようとした内田さんには、おつかれさまと言うほかないのだが、こんな内幕が隠されていたことを知ることができたのは、まさに内田さんがまともにテーマを受け取られたおかげである。感謝。

追記

大事なことを書き忘れていた。

内田さんは、記事中で

「未読の本」を回答したのは私一人で、あとの51人全員が「もうすでに読み、これからもぜひ読みたい本」を挙げていたのである。

と書いているが、実際にそうなのだろうか。
また、内田さん以外に未読の本を挙げている人がいるならば、どんな内容を記しているのか。上記の通り、何とも芯の抜けたような中身なのだろうか。
以下、『文藝春秋』12月号のアンケートについて、「未読の本」を挙げた人物名と書籍、そして、文章の内容を簡単に、かつ勝手に要約して記してみたい。

1 与謝野馨『カッツ 数学の歴史』
大著に挑戦しようとすると、なぜか入閣してしまう(結果、読む暇がなくなる)。数学という特別な言語を操り、歴史を刻み続ける数学者たちについて、いつか思いを馳せたいが、今は日本経済再生の解を導かねば。
※あら不思議。


2 丹羽宇一郎大航海時代叢書』
ノンフィクションやドキュメンタリー、なかでも、なるべく加工されていないものを好んでいる。今読みたいのは『大航海時代叢書』。ヨーロッパの人間が新大陸で初めて現地人に出会ったときに、どんな反応を示し、そしてどうやって融和していったのか。そこから、100年後の人間の姿を想像したい。
※融和?


3 桜庭一樹『背教者ユリアヌス』
人と人が、わけのわからない偶然によって出会うように、人と本とも出会う。ちょうど今は『背教者ユリアヌス』がそれ。短期間に3回も偶然出会いました。
※言ってはアレだが、それが「死ぬまでに絶対読みたい本」でいいのでしょうか?


4 池辺晋一郎『ガルガンチュワ大年代記
病弱だった幼いころ、家の蔵書を片端から読んでおり、その中に本書があった。5巻から成る物語で、全部は読んでいないが、豪放磊落な中世ヨーロッパの騎士たちと、エッチングの挿絵にも魅了された。今、もう一度出会いたいのだ。
※主観だが、未読・中断組の中で、最も読み応えのある内容だった。


5 中野翠福田恆存全集』
本棚に20年死蔵している。どうやって読もうか。
※本当にこれだけの内容。わざわざ池辺晋一郎さんの直後に、これを並べているのは、編集部に何か含むところがあるのだろうか。


6 ねじめ正一『定本柳田國男集』
今のオクサンと同棲していた学生時代、彼女が『定本柳田國男集』を買うために親から送ってもらった金を、ねじめ氏が使い込んでしまった。ところがその両親がやってくるというので、別の友人から一時期だけ借りてごまかすことに。本ごと持って行くには重かったので、カバーだけ借りて、なんとかバレずにすんだ。40年の罪滅ぼしに、今こそオクサンに買ってあげたい。そして読みたい。
※貧乏学生時代のいい話。というか、まだ買ってなかったのね。


●番外1 磯崎新リグ・ヴェーダ讃歌』
インド出身の、コンピュータを駆使する不思議な占星術師や、空中浮遊のできる瞑想術師たちの、術の背後には『ヴェーダ』という文章があると教えてもらい、アーティストとして気になっているところだ。
※実は、本書を読んでいるのかそうでないのか、よく分からない内容。それにしても、空中浮遊って…。


●番外2 佐伯チズ源氏物語
谷崎源氏は読んだけど、今読んでいるのは瀬戸内源氏よ。瀬戸内寂聴さんは、男女の機微をどう描写するかしら。
※一応、谷崎源氏自体は読んでいるので番外としてみた。


というわけで、内田さん以外の51人の中にも、少なくとも6人、多ければ8人は未読・中断組がいることがわかる。さすがに、残り51人全員が「未読の」を無視したわけではないようである。

そしてその内容であるが、やはり未読組は、書くことが少なく苦心していることが見て取れた。通読組が、自分の人生と本の内容とを絡めながら、思う存分自分語りしているのに比べると、未読組のそれは、単なる自己紹介程度でしかないと感じた。52本の自己紹介……。やはり、本当に未読だけで52本並んでいたら、gdgdっぷりに腰砕けになったかもしれない。

*1:そしてそれは、元々の企画意図に対しては正しい理解だったようだ。