ドアから出入りするのは肉体、窓から出入りするのは霊魂:アイドルマスター 如月千早 「嵐が丘」-えこP(その1)

ロミオとジュリエット」と「嵐が丘」、それにあともう一つ、何だか忘れたけど、まあ何かを加えたのが、“土葬という風習がなければ生まれなかった三大悲劇”なのだと、昔むかし、どこかで読んだことがある。
そんな知識を得たすぐ後に、ケイト・ブッシュの「嵐が丘」を聴いたものだから、この曲を文字通り曲解して、「嵐が丘」という小説をずっと「ヒースクリフとの愛が実らないゆえに気の狂ったキャサリンが、死んだ後も棺桶から抜け出し(何せ土葬だから、肉体が残っている)、『ヒースクリフ、棺桶の中は寒いの。窓を開けて私を中に入れて。私を温めて』と迫る話」だと思っていた。「猿の手」かよ!>自分。

今思えば、窓から入れてっていうんだから、このキャサリンにはすでに、肉体は存在していないんだね。日本でもイギリスでも、たいていは、肉体はドアから、霊魂は窓から出入りするものだろう。少なくとも僕は、自分ちの隣に住んでいて学校ではクラス委員長でスポーツもそれなりにできて頭も良くて先生からの信頼も厚くてその割になぜだか僕に何かとちょっかいを出してくるショートカットとカチューシャのよく似合う幼なじみのかわいい女の子以外、窓から出入りできる人間を認めたくないし、認めない。絶対にだ。

それはともかく。

僕にとってケイト・ブッシュの「嵐が丘」は、ジャニス・ジョプリンの「summertime」とともに、心の最も奥深いところにしまわれている、大事な曲である。

そんな「嵐が丘」で、えこPがとんでもない動画をつくってくれた。

しかも、いかようにも意味の取れる「意味深で意味シンな動画」を、である*1

※なお、以下、楽曲の方は「嵐が丘」、えこPの動画は二重カッコで『嵐が丘』と表記する。

嵐が丘』の動画の違和感

最初に見たとき、まずは「嵐が丘」を選んだことに驚愕し、次は映像美と世界観に腰を抜かした。しかし一方で、構築された映像に対し、わずかなんだけど、何とも言えない違和感も覚えた。
その違和感の正体を明らかにしたいと考えて見たのが2回目、3回目ぐらい。この段階で自分なりに違和感の理由をいくつか特定した。
以降は、その違和感がえこPの意図するものか否かを考えるために見た。さらに、意図するのであれば、何を意図したのか、仮説を立てるために見て、その仮説が妥当かどうか検証するために見た。投稿されていることに気付いたのが25日夜のため、まだ3日半しか見ていないが、それでも50回以上は繰り返し見たと思う。

そうして、自分なりの鑑賞と感想を、いくつか導くことができたので、以下、記してみたい。

なお、前提として、「えこPはこういうことを意図しているのだ」などと正解探しをしたわけではない。

そもそも、正解を探したければ、「えこの日常」へ行けば、何か提示されているのかもしれないし、それ以前に、自分が賢明であるなら、8月30日にアップされるという、対の動画を見てから書くべきであろう。

だが僕は、それらを見ず、ノーヒントで、現状までに感じたことを書いている。

そうして導き出した自分なりの鑑賞と感想。
言うまでもなく、単なる僕の妄想である。

えこPならびに不幸にもこのブログに行き当たった方には申し訳ないが、「嵐が丘」を僕の妄想で汚したいと思う。

嵐が丘』に関するいくつかの妄想

嵐が丘』の中で、僕は大きく、5つのことに注目した。言い換えれば、以下、5つの妄想を展開している*2

1 なぜズームアウトなのか

妄想の一つは、46〜47秒。なぜズームアウトなのか、ということ。

最初のサビへの導入部は、「嵐が丘」の楽曲の中でも、大きな山場だ。
Aメロでは、ピアノ&シンセサイザーの伴奏で、キャサリンの置かれた状況が静かに、ただし、何かの予感を孕みながら、説明される。それが一転、サビにさしかかると、力強いドラムが加わり、ヒースクリフへの、たった一つの切なる願い(あるいはキャサリンの狂気にとらわれたヒースクリフの妄執)が、荒れ狂う風のようにうねるメロディと、豊かで伸びのある高音とで歌い上げられる。

もちろん『嵐が丘』でも、ここに山場が構築されている。以下の通り、たった2秒の間に、これだけの情報量を詰め込み、しかも静と動を対比させていることからも明らかだ。

・Aメロの終わる45秒まで
背景は静止。ハイライトの抑えられた草原、風景画に固定されたような青い蝶と、枯れかけの草花(死の世界?)。そこに千早は、ひとりたたずんでいる。

・46秒
光球が出現し、高速で飛び去るのに呼応するかのように、強い風が吹き始める。目を見開き、光り輝く千早。集中線を引いたような残像を残しながら、ズームアウト。

・47秒
風が大地を揺らし、空から陽光が差し込む。なびく千早の髪とともに世界が動き出し、サビが始まる。

☆ ☆ ☆

しかし、初見で僕はここに小さな違和感を覚え、2度目で大きな疑問となった。
46秒のシーン、なぜズームアウトなんだろう、と。

もし自分が同じようにつくれと言われたら、間違いなくズームインを選択する(それゆえ僕は凡人なのだが)。遠景から、ドラムの入りに合わせて千早へズームイン。視聴者の目を強制的に千早へ釘付けにしようとするだろう。また、歌詞から考えても、ズームインの方が自然だ。遠景は客観的、近景は主観的な意味を持ちやすいから、「Aメロ歌詞の客観性と遠景の客観性」「サビの歌詞の主観性と近景(千早)の主観性」がマッチする。

しかし『嵐が丘』では、曲の最も盛り上がり、主観で語り始めるところで、一瞬であるが、あえてカメラを急激にズームアウトさせ、遠景・客観に切り替えている。

なぜだろうか?
僕は、一つの妄想を導き出した。

すなわち、「嵐が丘」の歌詞にある、キャサリン狂恋・熱情に、ある種の客観性・普遍性を持たせようとしているのではないか、と。

言い換えると、千早は「嵐が丘」を歌っているけれど、「キャサリン=千早」ではなく、「キャサリン=皆*3」なのではないだろうか。

では、『嵐が丘』での千早の役割とは? 僕は、千早は主人公でなくて、狂言回しなのではないか、と考えたのである。

(続く)
続き→肉体を温めるのは暖炉の炎、魂を温めるのは魂の炎:アイドルマスター 如月千早 「嵐が丘」-えこP(その2)

*1:対になる動画がまだ挙がっていないのだから、「意味深」になるのは当たり前だが

*2:一応、今のところ5つ+αになるはずだけど、増減したらこの数字は書き換える

*3:ここでいう“皆”については、後で言及するつもり