どぶろっくの芸は痴漢のメンタリティとイコールなのだろうか
はじめに
まず、幼少のころから数多くの痴漢犯罪に巻き込まれていたという田房永子さんに、心よりご同情申し上げます。
章立て
LOVE PIECE CLUB - 田房永子 - どぶろっくと痴漢の関係を受けて、
1〜2は、田房さんが「痴漢が痴漢をなぜするのか」理解できた、という内容の妥当性について
3は、その補足
4〜5は、どぶろっくの芸に結び付けることへの是非
6以降は余談
となっています。
1 痴漢の心理について
「なぜ痴漢は痴漢をするのか」理由を知りたかった、という田房さんの思いは分かるつもりだ。その思いを抱えていた中で、『刑事司法とジェンダー』という本に出会ったこともいい。
だが…。
=========
Yは強姦をしようと女性を襲った際、狙いを定めて自分が襲いかかったにもかかわらず、被害者の存在に驚いたのだという。また、女性を拉致したり、女性宅に侵入した時、Yが彼女らの生活空間に侵入したにもかかわらず、彼女らがYの世界に入ってきたのだと語るのである (「刑事司法とジェンダー」より引用)
=========加害を起こしている側が『被害者のほうから俺の世界に入ってきた』という、普通に考えたら意味不明なYの言葉が、私が今まで見た、全ての「痴漢」の行動の説明として、成立していた。
最も違和感を覚えたのはここだ。
"全ての「痴漢」の行動の説明として"と言ってしまったら、それ以外の動機を持った痴漢は「ないもの」になってしまう。
でも実際には、Yのような考えを持った痴漢ばかりではない、と僕は想像している。
この点について、以下の段落を引きながら考察してみる。
そのあと私は電車内痴漢に関する取材を重ねた。電車内痴漢加害をしている最中の者はやはり「自分の半径1メートルを覆う『膜』のようなもの」を持っていると感じた。自分の『膜』の中に入ってきたのは女のほうであり、なぜかその女のことを何をしてもいい「もの」のような感覚で捉えていて、そこから独自のストーリー(大抵は「女のほうが欲情している」というもの)を展開させ、それに沿って行動している。
だから「相手の女性は痴漢行為を受け入れている。喜んでいる」と解釈したり、「電車の中で触られたがっているけど自分からは言い出せない女の子を触ってあげている」と親切心のようなものを持っていたりする。その行動自体は、まったくムチャクチャで一方的で意味不明なのだが、彼らの『膜』の中では矛盾がない。矛盾がないからこそ遂行できるわけだし、むしろこの「『膜』の中のストーリー」が無ければ、いくら発情状態の男でも電車内で見知らぬ女に触るなんてこと、できないはずだ。
痴漢の心理なんて分からないけれど、「無理やりに自分の劣情を押しつけて、嫌がる様子を楽しみたい」という動機もありそうだし、そもそも、相手が喜ぶとか親切心とかいったストーリーも何もなく、ただ「目の前の対象を触りたい」という欲求を発露させるだけというケースも多いのではないだろうか。
しかも、「できれば気付かれないように」。最低でも「告発されないように」。
例えば、どんな状態だったのかは分からないけれど、田房さん自身が次のような経験を書いている。
何の得があるのか分からない加害行為(スカートのひだをソーッとなでるだけ、とか)を自らしてくるあの感じ。
このくだりは、一読して「相手に気付かれないぎりぎりのところで触れたい」という考えの発露だろうと思ったし、そこには「相手の女性は痴漢行為を受け入れている。喜んでいる」という解釈も、「電車の中で触られたがっているけど自分からは言い出せない女の子を触ってあげている」という親切心もなさそうだ。
2 痴漢被害者が、痴漢加害者をどう認識するかについて
それなのに、痴漢の全てを、
「自分の半径1メートルを覆う『膜』のようなもの」を持っている
自分の『膜』の中に入ってきたのは女のほうであり、なぜかその女のことを何をしてもいい「もの」のような感覚で捉えていて、そこから独自のストーリー(大抵は「女のほうが欲情している」というもの)を展開させ、それに沿って行動している
という枠に押し込めて、痴漢被害者に理解させようとするのは、うまく言えないけれど、ダメな気がするんだ。
田房さん自身がどんな枠組みで痴漢を認識しようと、それは個人の自由だ。ご自身が最も安定する形で認識すればいい。
ただ、それを一般化して、痴漢被害者に押しつける行為とは、つまりは、「あなたも痴漢をこう認識しなさい」という「田房さんの『膜』の押しつけ」でしかないのではないだろうか。
−−−注:ここから先は、うまく言語化できていない。より良いたとえがあるなら、いつでも撤回する。
こういうたとえが適切でないことを承知で書くが。
例えば「何の得があるのか分からない加害行為(スカートのひだをソーッとなでるだけ、とか)」を受けた人がいるとして。
その人が「この行為はまともに痴漢もできない小心者が、たまたま私が目の前にいて、何の脈絡もなく、ただ『何の得があるのか分からない』痴漢類似行為をしてみたくなって、スカートのひだをなでただけなんだ」と自らを納得させ、心を安定させていたとして。
そこに、田房さんが出てきて「あなたはスカートのひだをなでられただけだと思っているかもしれないけれど、実はこのとき、あなたは『何をしてもいい"もの"のような感覚で捉え』られ、『そこから独自のストーリー(大抵は「女のほうが欲情している」というもの)を展開させ』られていた。全部が全部そうなのよ」と言い出したら。
それが絶対的な事実だというならまだしも、痴漢の心理の一面しか捉えていない、田房さんの妄想をこうして押しつけられたら。
ものすごく気持ち悪いんだ。
−−−ここまで。言いたいのは、田房さんの推論が許容されるならば、この推論も一つの考え方として許容されてもいいのでは、ということ。「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」のように。正直、このたとえ自体が「わら人形」になりかけていると思うのだけど、どうしてもうまく言語化できなかった。残念でならない。
3 田房さんのバイアスについて
後は細かい突っ込みだ。
電車内痴漢加害をしている最中の者はやはり「自分の半径1メートルを覆う『膜』のようなもの」を持っていると感じた。
誰に、どのような取材をしたのかは分からないのだけれど、この人、『膜』があるという先入観に則って取材しなかっただろうか。
先入観は認識をゆがめるし、取材相手も、その先入観に沿って話をしてしまいがちだ。
例えば電車内痴漢は、「男性」が「満員電車」で「露出の高い服装の女性」によって「性欲」を「刺激」されて「女体に触ってしまう」、つまり満員電車と女性の服装によって誘発される犯罪であると一般的に認識されている。
どの界隈の「一般的」なんだろう。
痴漢が逮捕された云々の記事をきちんと読めば、空いている車内でも起こっていることは一目瞭然だし、痴漢に遭いやすいのは、露出が高いか否かではなく、おとなしそうか否か(=「痴漢です」と告発されづらいか否か)だというのは、元被害者でなくても、(一部のご老人andご老人と同じメンタルのおっさん・おばはんを除いて)そこそこ広く認知されていることだと思うのだけど。
こういう「痴漢への認識が甘い世間一般」というわら人形をつくって、その対比として「気付いている自分」を演出するのは、ちょっとどうかと思う。
自分が電車の揺れを利用して私の股間に手を伸ばしてきたくせに、こちらが「痴漢です!」と声を上げたら明らかに怒りを持った眼差しを向けてくるあの感じ。
そういう「痴漢ではない」「痴漢に間違われて迷惑だ」ポーズを取るのは、『膜』云々じゃなくて、単に、「捕まりたくない」という自己防衛本能が発動しただけのケースもあるのではないだろうか*1。
4 どぶろっくの芸と痴漢の心理との相似について
さて、どぶろっくだ。
どぶろっくは、まさに田房さんが考察しているように、
観客は彼らの“男の妄想”を聞いて「んなわけねーだろ笑」「バカじゃないの笑」という呆れ笑いがこみ上げる、という芸
が受けているのだろう。
(なお、本当は、男の妄想に限らない。女性だろうが何だろうが、振り切った妄想がそれなりに面白いのは当たり前だ)
これについて、田房さんが、
私には、どぶろっくのネタが、痴漢加害者が発想する「『膜』の中のストーリー」そのものにしか聞こえない。
と感じるのは、田房さんの認識として、尊重されるべきだ。
また、
どぶろっくが歌う前に言う「素直になれない全ての女の子たちに捧げます」というキャッチコピーも、シャレにならなくて、鳥肌しか立たない。
についても、このキャッチコピー自体が「以後は全部ネタですよ」という保証というか証明になっているんだけど、これを「シャレにならなくて、鳥肌しか立たない」のであれば、あなたにとって合わない芸なのだ、と言うほかない。
いや、合わないのはしょうがない。誰にだって、嫌いな芸風、嫌いな芸人はいるものだからだ。僕にもある(いる)。そして、その理由は各個人の、ごくパーソナルな領域に由来している。当然だ。
田房さんは、自身が理解したと思っている痴漢加害者の心理と結び付けて、鳥肌を立てた。
それも仕方がない。
だが、1〜2で書いたように、痴漢加害者が加害行為に至る際、全てが「自分の半径1メートルを覆う膜のようなものの中に、女の子が入ってきた、という感覚」を持っているとは、僕は思わない。
また、どぶろっくは、痴漢の心理をネタ元にしているわけでもないし(少なくとも、そのような公言はしていないはずだ)、「白目向いて寝てましたけど、それって僕の股間を見て失神してたんですよね」などと特定の相手に真顔で言ったわけでもないだろう。
田房氏は痴漢の心理を『膜』だけで理解しようとしたから、そう感じるのだろうが、それはどちらも「突飛な妄想」という点で単に似ただけだ。
だから、
そんなどぶろっくがこんなに老若男女に大人気なのは、痴漢などの性犯罪に関する知識が日本の世の中に浸透していないことの表れである。
だけど、「どぶろっくを笑う世界」には、痴漢などの性暴力は存在しないことが前提になっている。同じ世の中にそういった被害は実際にあるのに、その被害とどぶろっくは別々のものと認識されていて、観ている人たちの中で、まったくつながっていない。
は、田房さんの認識の狭さを原因とする、論理の飛躍だ。「妄想」の言葉、その表層しか見ていない。
田房さんが、何をどう嫌おうが自由だ。
だが、それを変に一般化してはいけない。
女子中学生が痴漢に遭って「マジ痴漢ってなんなの?! ムカつく!」と言いながら、どぶろっくを見て笑っている、という状況は異常だと思う。
そういう女子中学生は本当にいるのかという疑問は置くとして、――痴漢に遭遇した経験のある女子中学生が、そりゃ、「この前女子中学生を痴漢したら、嫌がっているように見えたけれど本当は喜んでたぜ」とかいうセリフに笑っていたら異常かもしれないけれど――、痴漢の『膜』とは本質的に関係ないどぶろっくの芸に笑うのは、別にアリだ。もちろん、どぶろっくを見て、田房さんと同様にムカついてもいい。
どぶろっくを見て笑うことをもって「異常」と断言するのは、その女子中学生が何を面白いと感じるか、という自由をあまりにも軽視している。田房さんがどぶろっくの芸を嫌う自由が尊重されるのと同様、女子中学生がどぶろっくの芸で笑う自由も尊重されるべきだ。
「痴漢などの性犯罪に関する知識が日本の世の中に浸透していないことの表れ」以前の話として、「痴漢に遭う」ことと、「どぶろっくの、しょーもない論理の飛躍を笑う」ことの間には、大きな隔たりがあるのだから。
5 「教育」について
最も意味が読み取れなかった部分はここだ。
どぶろっくは痴漢加害者の発想をとても的確に表現し、分かりやすくまとめているので、中高生向けに教材として使って「痴漢はこういう心理でいる場合が多い」ということを教えて欲しいし、そこから自分がどうすればいいのか考える授業をしっかりやってほしい。ていうかやってないのがおかしすぎると思う。
前段で「全て」と言っているのに、ここでは「多い」では矛盾だよね、というのはともかく。
仮に多くの痴漢加害者の発想がこの通りとして、では、それをどのように「自分がどうすればいいのか考える授業」へ結び付けるのかが、本気で想像つかない。
「痴漢の『膜』の中へ入ってはいけないよ」と注意を促す? 田房さんの経験を元に考えてみたけど、どうしようもないよね。
「痴漢されたのは、あなたが相手の『膜』の中へ入ってしまったからだよ」と説明する? そんな説明で納得できるものなの? 田房さんは、「つながった」おかげで一人合点できているのかもしれないけれど、じゃあ全員が同じ論法で納得しなきゃいけないの?
田房さんの意図とは違うことを書いてるかもしれない。申し訳ない。でもこれ、本気で分からないんだ。
せめてここをきちんと書いてもらえれば、過度な一般化には警戒しつつも「そういう授業もアリかもしれませんね」と言えるのだけど。いや本当に。
6 余談:どぶろっくの芸について
田房さんが挙げているネタのうち、
「夜道で前を歩いてた女が、こちらを振り返って急に歩くペースを速めた。もしかして、俺を招くために部屋を片付けたいんじゃないのか?」
という例は、僕個人としてはいいデキだと思わない。ここに出てくる「振り返って急に歩くペースを速めた」女性は、(フィクションだけど)「ある種の怖さを感じた」ゆえに取った意味のある行動を、「別の意味ある行動」に曲解しているだけだからだ。
そうではなく、
「電車で席に座っていたら/隣に座った女が/俺のジャケットの裾をおしりで踏んでいるんだ/もしかしてだけど/俺が降りるのを食い止めてんじゃないの?」
「ファミレスで女の店員に/料理を注文したけど/いつまだたっても運ばれてこないんだ/もしかしてだけど/誰が持って行くか女たち揉めてんじゃないの?」
といったネタの方が好きだ。何も考えていない無意味な行動を、突飛な妄想で意味あるものにふくらませているからだ。
どぶろっく当人やファンがどう思っているかは分からないけれど、田房さんの肩を少し持つなら、「ペースを速めた」ネタはあまり笑えないな、とは僕も思う。
終わりに
自分はどうしてあんなにたくさん痴漢に遭わなければならなかったのか、考えていきたい。
本当に何でなのでしょう。田房さんを助けることができなかった(助ける場所にいなかった)自分が、残念でなりません。
この世から、痴漢の被害に遭われる方が少しでも減りますように。可能ならゼロとなりますように。心からそう願っています。
おまけ
本文とは違うのだけど、強烈な違和感を覚えたので記しておく。
(http://www.lovepiececlub.com/lovecafe/mejirushi/tabusa_20140818.jpgを引用)
右のイラスト、「そして〜」以降が分からない。これまでの論旨や、イラストの前段を受ければ、むしろ「妻子が俺の『膜』の中」に入って来ているから、何ちゃらかんちゃら(ex.何をしてもいいと思っている、暴力を振るう、など)、という展開になるはずだ。
これって、おそらく「育児に協力的でない男」という叩きたい敵(=結論)が先にありきで、それなのに『膜』の話へ強引につなげようとしたから、変に食い違ってしまったのではないだろうか。
僕は、結論ありきの人をあまり信用しないし、できれば、「味方」の陣営にいてはほしくないかな。
*1:中には本当に痴漢えん罪だったという人もいたかもしれないけれど、それは置いておく。
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【6】ほしいものがあれば手元にお金がなくてもカードで何でも買う
お金は後で稼げますが、時間と後悔は取り戻せません。時間への投資ができる、計画性のある男性は仕事も計画的にやっている可能性大です。
【7】マジメ過ぎて冗談を交えた楽しい会話ができない
マジメな会話のできる、マジメでしっかりした人同士の強力な人脈を持ち、ビジネスチャンスを物にできそうです。
普段の何気ない行動に、「出世の見込みあり!」と判断できるポイントがたくさん埋もれているようです。いまの彼と結婚を考えている方は参考にされてはいかがでしょうか。
言うまでもなく、元ネタと同様ジョークですので、本気にされないように。
はてなブックマークは愛です?
先日、桜蔭生と結婚したほうが良い5つの理由|21世紀の生存戦略というエントリを上げたところ、筆者=桜陰OGと誤解した人が多数現れて「桜陰はこんなアホみたいな文章しか書けない人間でも入れるんだ!」という微妙な風評被害をまき散らした方の、次のエントリ。
PVは愛です?―個人がバブルを体験できる時代に|21世紀の生存戦略
バトンが繋がるかどうか?
を左右するモノは、ビジネスでも
マーケティングでもない。
あ、愛だ。
愛って大事ですよね。
はてなブックマーク - mackeyshark のブックマーク
はてなブックマーク - divinenation のブックマーク
はてなブックマーク - ss21c のブックマークこれは名前からして本人であることを隠していないけれど。
ブックマークからあふれんばかりの愛。
本当に、愛って大事ですよね。愛こそが21世紀の生存戦略なのでしょう。
それで愛は取り戻せるのかい?
「男を取り戻す」って、女性が言うと、自分を捨てて他の女に走ったかつての恋人を奪い返す意味、男性が言うと回春の意味になる、不思議ですてきな言葉。大好き。
僕は嘘つき
僕は1つ嘘をつくと、その罪ほろぼしに、5ついいことをしようと心がけている。
だから、普段の僕は、いい人です。
僕も大真面目にAさんの文章を校正してみた
http://d.hatena.ne.jp/tokoroten999/20130509/1368107661を読んで、http://anond.hatelabo.jp/20130508154614のAさんの文章を校正してみたくなった。
方針は3つ。
1.どうせ、どう手を加えようが、論点の矛盾や筋の通らなさは直せないのだから、元文の妙なすごみ(大して褒めてない)はできるだけ残す。
ex.
・「曰く」を3連呼することで生まれるリズム感
・「骨だけ骸骨」という響き。宮武外骨っぽいね
・「大真面目に」という居直り感
2.「僕」の数(3個)は変えない。文章中の距離もなるべく変えない。
ex.ハックル先生の文章から「ぼく」の数を減らしたら、確かに読みやすくはなるけれど、文章全体から嫌でも伝わってくるあの自意識過剰っぷりやアクの強さが抜けて、元々の論旨の弱さとマヌケさが露呈してしまうでしょう?
3.前後で意味が通りづらいところは、本当に意味が通るかどうかはともかく、前段の言葉を後段で繰り返すことによって、何となく意味が通じているように錯覚させる。
あとは、明らかに意味が通らないところや読みづらいところを、言葉を補う・削除する、文章を入れ替える…などにより整えた。
なお、迷ったのは、「理論的」と「論理的」。意図して使い分けているのかもしれないが、リーダビリティを阻害するので、前者は「理論上」と言いかえた。
●「理論上は正しいのに納得できない」
思うに「頭でっかち」、思うに「論理的な馬鹿」、思うに「ハリボテ」。
それが、僕がこの本について感じたことだ。思考法としては斬新きわまりないし、日本には少ないタイプの考え方であろう。
ただし、それらはあくまで「読者を焚きつける」意味合いのみであって、焚きつける以上の論理性、すなわち、社会に通用するリアリティを期待して読むとイライラさせられる。現代には、ロジカルであること、理屈に合うことが良いとする風潮があると思うが、その風潮に反して、「論理的であることの限界」を見せつけるかのような本だと感じるのは僕だけだろうか。
僕は「理論上は正しいのに納得できない」という感覚に何度も襲われたが、それは訳者が意図する「焚きつけるための超訳」にハマっていたからこそだろう。
現代が生み出した反面教師だ。経済学の観点から大真面目に反論すると、「効用最大化」の視点では素晴らしいリバタリアンも、「外部不経済」的視点はもとより、「人間は感情で動く生き物である」という、人間の精神的構造さえ受け入れられない欠点を抱えている。
確かに、経済学とは社会の骨組みを扱う学問である。骨組みを扱うゆえに全能感を抱きやすく、全能感を抱きやすいゆえに「理論上正しい」政策論議を行うこともできるのだが、神経や肉がつかなければ骨は動かないのと同様、社会システムという骨組みも、それを動かす人間という神経や肉がつかなければ、結局は成立しない。
リバタリアンという連中はまさに「骨だけ骸骨」である。
経済理論上では正しいことを言っているが、それとて一面的なモノ。まして他の学問領域に論理が及んでいないため、そのまま社会に取り入れたところでカオスを招くだけである。
だが、社会としては筋が通らず、納得もできない「理論上の正しさ」を、わざと展開してみせるからこそ、気づかされることも多かった。
なお、超訳の仕方が非常に現代的、学歴社会的な、「知性や知識を消費させる」態度であることは非常に面白かった。
訳者のセンスが良い意味でも悪い意味でも強く発揮された、時代に必要とされる著作であった。
自分なりに校正してみて面白かったのは、同じ素材でもid:tokoroten99さんとはできたものがこれだけ違うということ。
昔『3番テーブルの客』という番組で、「同じ脚本でも別の演出家が担当すれば印象はガラッと変わる」ことを明らかにしたけれど、それを思い出すきっかけにもなった。うん、いい番組だった。
素材を提供してくれたAさん*1、校正欲を刺激してくれたid:tokoroten99さんには感謝を申し上げたい。
*1:アップする直前まで、素でとあるidを書いていたのは内緒だ。